2009年1月31日土曜日

熨斗

贈り物に添える熨斗、齋宮から出たものであろうと言われています。外側を包むほこ形は、修理個成(つくりおさめ・かため・なす)の「天ノ沼矛(めぼこ)」をかたどり、その中には、後世は、のしあわびを包む様になりました。往昔は「齋庭(ゆにわ)の稲穂」由来して稲穂を包み、「あまつしるし」とよんで、然るべき人に下されたということです。稲津紀三著大信海55号。「幸せにおなりなさい。みんなで、支援いたします」と、誓って、壽をつて祝う。日本人のこころを感じた一日でした。 

熨斗(のし)の風習

2009年1月23日金曜日

心臓ー勝髪経義疏51

心臓の奥深き空処にこの不可思議な世界を見いだすと、平等覚、等正覚といいますが、本当に、心臓はどんな人の身体にも等しくあるのです。眠っていても、全身に休まず血を送り続けている。すべての人が分け隔てなく、等しく尊ばれている。この蓮華蔵世界を見いだしたことから、聖徳太子の義疏に書かれている人の法(ダルマ)がはっきりしました。如来蔵の世界です。聖徳太子勝髪経義疏講話より。
稲津紀三著勝髪経義疏より。(寺の読書会の内容なり)

2009年1月21日水曜日

2009年平成21年1月21日(水)米国オバマ政権発足

「責任の時代」幕開け東京新聞夕刊。米国四十四代オバマ大統領が発足した。歴史の中に生きている実感を持っている。一人の人間が世界に影響を与える。何回も繰り返された言葉、私たちは変えることが出来るであった。人々には、歓喜の生になった。人生を諦めている人の嘆きの元には、自分一人では何も出来ない、変える事は出来ないがある。この考え方を是正する事になったのではないだろうか。今回のアメリカのオバマ大統領就任によって、一人一人の力の結束が、世を変える事になるが良く解ったのである。日本国は、みんなで話し合いを持って、今、何を・誰を助けなければならないのかと、物事を絞って解決をしてきたのである。一人一人の理想国・人生の追求心が、類が類を呼び集める様に、みんなとの結び付きとなり、各位置・地位のみんなが一丸となって国・人作りと進む事を「責任の時代」と認識させて頂いた。お寺は、国・人作りの目標を持った出会いの人脈の場となってきたのである。合掌

2009年1月20日火曜日

今からでも遅くない(サンスクリト学習1)

今からでも遅くない(サンスクリット学習(1)から)
時のとらえ方には、カーラで表すと「過去・現在・未来」が普通であるが、サマヤを古人は、今の一言で表した。(上宮・聖徳太子撰 勝髪経義疏 稲津紀三註)
この今は、今を生き切るに通じて行く事例が出るのである。今からでも遅くないは、物事に向かって行く時に、うながす自分のこころとの対話となろう。

2009年1月13日火曜日

誰も私の決意を止めることが出来ない。

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風に吹かれた阿弥陀様

風に吹かれた阿弥陀様の風は、誰も私の決意を止める事は出来ない事を言うのである。弘法大師も言った。後輩が教員を目指して、卒業半年を控えて、突然「医者になる。」と、言った。私の恩師が、「医者になりたいという志は結構ですね。貴方か、貴方と縁ある人に、必ず、お医者さんがでるでしょう。」と、ポンと肩をたたかれた。日本で、50才になった人が、僻地医療の医者の必要性を感じて医者になった例があるという。私自身も、仏法の医王・聖徳太子の「凡を化して聖となる」という教えに共感して、法隆寺(学校)、四天王寺(病院・ホーム、国際交流)を目指す寺を新寺建立したのである。夢を与えられる寺として。

2009113

新聞を読んで 自業自得

風に吹かれた阿弥陀様は


今日、新聞を読みました。新聞の活字を読む事で、世界の国々の政治が、国民に対して、何時・何処で・誰が・なんの目的で、何をどのくらいをしたかが分かるのです。現在の世界状況は、今、こういう状況になったのではないのです。国民の幸福を思わない一部の利益だけ追求、これらが政治・教育・医療・福祉・国際交流に国民に不幸なる政治結果として、現れているのです。この結果の政治を司る政治家を現在の日本では、国民が選挙で選ぶのです。国民が主権となって、政治家を選挙で選出する事となるのです。お寺の教えは、自業自得(じごうじとく)自分の行った行いが、必ず結果として現れる教えです。一人一人が他への思いやりの心で歩む事が、夢と希望を生み出せる事になると説くのです。道徳心は当たり前ですが、これに、問題が起きてしまった時、何時・何処で・誰が・この問題を、どう解決されたかを学ぶべきなのである。こう思って、お寺で聖徳太子の国作り・人作りなる教えを学ぶ勉強会を開いているのです。共に、学びましょう。合掌

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2009110

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200919

明日の法話会

明日、お寺で法話会。「一人一人の願いを聞かせて下さい。願いは、必ず叶うものである」と、口火をきりたい。お寺は、一人一人が願いを宣言をする様に支援する事で、願いが叶うように目標に向かって計画し、行動を起こす事様にになるだろう。誰の性にも出来ない自覚が生まれるのです。ちょっと考えてみると、「みんなが、こうしている。言っているは、責任逃れかも。責任ある行動には、この私が、このことをしますと言えれば、第三者の人々が承認となっているのだから。仏典読書会で、親鸞聖人が一人称単数で語っている場所がありました。どうぞ、願いを強くもって、目標に変え、人の手を借りて、歩んで行きましょうと、強く呼びかけたいです。昨年、「I can change.」「変」が、人々に勇気を与えましたね。法話会の感想を掲載出来ればと思います。教化活動を等してお寺は、願いを叶える場となっています。合掌。

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三寶寺通信
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200918

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新聞を読んで 自業自得

風に吹かれた阿弥陀様は


今日、新聞を読みました。新聞の活字を読む事で、世界の国々の政治が、国民に対して、何時・何処で・誰が・なんの目的で、何をどのくらいをしたかが分かるのです。現在の世界状況は、今、こういう状況になったのではないのです。国民の幸福を思わない一部の利益だけ追求、これらが政治・教育・医療・福祉・国際交流に国民に不幸なる政治結果として、現れているのです。この結果の政治を司る政治家を現在の日本では、国民が選挙で選ぶのです。国民が主権となって、政治家を選挙で選出する事となるのです。お寺の教えは、自業自得(じごうじとく)自分の行った行いが、必ず結果として現れる教えです。一人一人が他への思いやりの心で歩む事が、夢と希望を生み出せる事になると説くのです。道徳心は当たり前ですが、これに、問題が起きてしまった時、何時・何処で・誰が・この問題を、どう解決されたかを学ぶべきなのである。こう思って、お寺で聖徳太子の国作り・人作りなる教えを学ぶ勉強会を開いているのです。共に、学びましょう。合掌

2009年1月9日金曜日

明日の法話会

明日、お寺で法話会。「一人一人の願いを聞かせて下さい。願いは、必ず叶うものである」と、口火をきりたい。お寺は、一人一人が願いを宣言をする様に支援する事で、願いが叶うように目標に向かって計画し、行動を起こす事様にになるだろう。誰の性にも出来ない自覚が生まれるのです。ちょっと考えてみると、「みんなが、こうしている。言っているは、責任逃れかも。責任ある行動には、この私が、このことをしますと言えれば、第三者の人々が承認となっているのだから。仏典読書会で、親鸞聖人が一人称単数で語っている場所がありました。どうぞ、願いを強くもって、目標に変え、人の手を借りて、歩んで行きましょうと、強く呼びかけたいです。昨年、「I can change.」「変」が、人々に勇気を与えましたね。法話会の感想を掲載出来ればと思います。教化活動を等してお寺は、願いを叶える場となっています。合掌。

2009年1月8日木曜日

あけましておめでとうございます。おめでとうのめとは、なんだろうとちょっと考えてみました。草花の芽と考えてみました。草花・野菜を育てる為に種を蒔き、肥料・水をやって育てた結果、芽が出てきたのです。双葉の姿です。その姿を見つめと、双葉の芽が合掌の姿をもって生まれてきた様に感じたのです。そして、「私を生んでくれて有り難う御座います。どうぞ、お育て下さい」と、こちらに、語りかけてきたのです。その語りかけに、いのちを託された様に感じたのです。この双葉の芽を当てはめて、お芽出度う御座いますと、心のなかでつぶやき、両手を合わせてみたら、合掌の姿になり、自然に感謝の気持ちが沸きおこり、頭が下がりました。感謝の気持ちは、お育てくださる護持養育(ごじよういく)の親心でしょうね。本当に、世に名を残す人は、親、特に母を尊敬出来るひとと言われていると言われています。
双葉は、親と子・人々、社会との護持養育なる御縁の出会いを示す事ではないでしょうか。新しき年に、「私を生んでくれて有り難う御座います。どうぞ、お育て下さい」の託された声を、親子・人々すべてが幸福になる道として、互いに合掌の姿をもって広めて行きたいものと思ったのでした。